私は小さい頃、親戚の家に預けられていたことがある。
それは母の入院のためで、1年以上の期間に渡った。
預けられたのは母の姉のところで、看護婦をして一時は中国まで派遣されていた彼女はチャキチャキとした人だった。
ぼんやりと日々を過ごしていた幼い私は、そこで「お手伝い」することを覚えた。
顔色を、見て、よきところで「おばちゃん、お手伝いない?」
今思えば、それはかえって手間取らせることだったろうと思うけれど、私は私で、子供なりに必死だった。
いい子にしておかなければ。
でも、うまく出来ないことが多かった。
家ではいいこのつもりだったけれど、ここではうまく出来ない。
その家々のルール。
段取り。
身に付けるのに時間がかかった。
大人になった今でも、うまくこなせないのだものね。アハハハ。
そんな時、何時も助けてくれたのがケイコ姉ちゃんだった。
ケイコ姉ちゃんは、早くに父親を亡くし、母親が看護婦をして働いて離島に勤務していたので、彼女もまたこの家に預けられていたのだった。
慌てないでゆっくりお皿は洗うこと。
水道は出しっぱなしで洗わないこと。
一つ一つ教えてくれるケイコ姉ちゃんは、おおらかで優しかった。
なのに。
彼女は大腸癌で亡くなった。
告知を受けた時はステージ4だったそうだ。
今思えば告知前後だったのだろう。九州から何度も電話があった。
私はそれほど深刻な状況だとは知らなかった。
だって、ケイコ姉ちゃんはいつも明るい声で
「癌は癌なんだけどさー。あんたみたいに明るい患者はおらんって、今日も先生に笑われてー。」
「切ったら治るからー」
「痛か痛かって言うとったっちゃしょうがなかー。今日も仕事たい。」
仕出し屋をしていたケイコ姉ちゃんは、相変わらずくるくると働いている様子だった。
「無理せんでねー。」
「せーん。大丈夫、大丈夫。」
そういう調子だったから、いつもいつも。
だから、私は時には
「え~?電話?今忙しいのに。ケイコ姉ちゃんの電話いっつも長くなるんだよなあ。」
なんてぶつぶつ言っていたりしたのだ。
最後にケイコ姉ちゃんを見たのはスマホの小さな画面の中。
「あ、tontiki」
そう言ったケイコ姉ちゃんは、すっかり面変わりしていたけれど、やっぱり笑ってた。
あの時もこの時も
ケイコ姉ちゃん
本当はどんな気持ちだったんだろう。
本当は。
沈丁花の花の香りの中で考えている。