仕事が生き甲斐だった時期があった。
仕事をして、評価され、相応の糧を稼ぎ
よく遊びもした。
その渦中に居る頃は、そういう日々が続くと思っていたし、それなりに見えていた景色はまだ未開の部分があると、上昇志向を全開にもしていた。
どれだけ心を砕き、慈しんでも、いつか子供は親離れをして、旅立っていく。
それと同じように、あの頃、仕事が生き甲斐だったけれど、でも、全てにはならなかった。
だって仕事は手段。
いつか子供は旅立つと思っても、愛することは、慈しむことは、止められないよなあ。
仕事は手段に過ぎなくても、あの日々があったから、今私はこうしていられる。
楽しむということは
切なさも苦しさも含んでやっとのことだなあと思う。
だから、自分を憐れんで、時間を無駄にするのは勿体ない。
自分にかまけすぎると、ダサい。
そうだよな
ダサいかダサくないか
20歳を過ぎればそれは自分の選択。
イエスもNOも。
手段は、幸せになるために用意されている。
心を抱かれた夜があるなら、身体に支配されたりはしない。
親離れした子供は、一人の大人として再び姿を表す。
愛することは抱きしめること
そうして手放すこと。
その連続なんだなあ。
一人
そんなことを思っている夜。