運がいいとか悪いとか

「tonchikiさん、調べた結果、やっぱり間違いありませんでした。」


「そうですか。」

 

「・・・癌でした。早い時期に手術が必要です。」

 

「・・・先生、私、乳癌だとも言われたんですけれど・・。」

 

「ああ、そうですよね。
でも、状況としては大腸癌の方が深刻です。
なので、こちらを優先させます。
あ、もちろん、乳腺の先生にも、了解してもらっていますよ。」

 

「あ、はい。」

 

「今回、tonchikiさんの大腸検査には、外科のドクターも、乳腺のドクターも、みんな立ち会って戴きました。

それに、tonchikiさんには、造影剤の問題があるので・・」

 

そうなのだ。

以前私は、椎間板ヘルニア3か所同時発症で、強制入院、強制手術という体験をしているのだけれど、その際、造影剤にアレルギーが出て、大変な思いをした。

「造影剤アレルギーなんぞ、点滴で薄めればすぐに収まる。」

そう言ったドクターの言葉を裏切って、私はエクソシストリンダ・ブレアのように
ベッドごと激しく痙攣し、押さえつけようとした看護婦3人を跳ね飛ばした。

 

3回目の点滴の時、これ以上は危険ということで
「もし何かあっても、何も文句は言いません。3回目の点滴を打つことを、了承します」という誓約書にサインをと言われて、皇太后は怒った。


「もし何かあったら、許しません。」

 

太后の怒りが天に通じたか、なんとかその最後の点滴が利いて、私は元気になったのだけれど。

そういう訳で今回、そういえば・・・と「造影剤アレルギーだと思います。」と最初に申告したのだった。

造影剤が使えないということは
結構大変なことらしかった。

「造影剤が使えないので、もし何かあった時のために
外科の先生にも立ち会って戴いたんです。」

 

「ありがとうございます。」

 

私は、素直な気持ちで頭を下げ、お礼を言った。

 

ちびまる子ドクター・・・ありがとう。
きっと私の知らないところで、随分嫌な思いもしたよね。
でも、おかげで私は、無事に検査を終えられた。

 

「まだ・・・まだtonchikiさんは、お若いですしね。
ひとつひとつ、問題を解決していきましょう。」

 

「いや、そんなに若くもないですけれど。」


「・・・受け止められると思いましたんでね・・・。宣告もさせてもらいました。

それにしても、自覚症状はなかったんですか?」

 

「ええ。全くなかったです。
・・・だから、こんな風になって、すごく驚いています。」

 

「1番怖いのは、便秘だったんですよ。

便秘は?」

 

「いえ~~。1日1度は必ずでしたし。」

 

「・・・う~~ん。それはとてもラッキーでしたね。
普通は、便秘して、お腹が痛いと言って来院したときには・・・というパターンが多いんです。

便秘していなかったというのは・・・本当にラッキーでした。

 

というか、そもそもは胸がおかしいということで来て、ですものね。
そりゃこんな展開、驚きますよね。」

 

「はい。」

 

「とにかく・・・造影剤は使えないので、CT、MRI、骨シンチ、あらゆる検査をやって、転移がないかどうかを診て行きます。」

 

「はい。」

 

「明日はまた検査ですけど、とにかく、今日はもうこれで。
なので、ゆっくり休んでください。」

 

「はい。・・・先生、本当にありがとうございました。」

 

「はい。お疲れさまでした。」

 

アンラッキー。
その中のラッキー。

ラッキー。
その中のアンラッキー。

 

どっちがいいんだろ。

 

どちらにしても
アンラッキーに飲み込まれちゃまずい。

アンラッキーそのものの全容は、簡単には判らないことだってある。
「すぐに」判らないことだって、ある。

ラッキーだと思っていたことが、アンラッキーだったり
アンラッキーだと思っていたことが、ラッキーだったり。

全容が判りにくいからこそ、ぺたぺたと人は手のひらで、それら部分部分を触って、「判ったつもり」になる。


そうして、着地点を探して
「こういうことなんだ」と言いたがる。

 

でもさ、それって、あくまでも「個人の感覚」でしかない。

怖いのは「知らない」こと。
だから「私は知っているんだ」と思うことが、杖になると考える人は多い。

でもさ。

そんなに簡単に「判る」ことなんて、ないってこと。
そのことを想っている方が確かなんじゃないかと、私は思う。
だって、それこそ「人生なんて判らない」。
その事実は、今までの人生で、経験してきてもいるじゃない。


いくら「悟った」ようなキラキラを飾り付けても
「実は私の友達も」と合わせて言っても
あるいは「実は実は私もさ」と言ったところで

それらは「判った」ことの証明には、ならない。


「判った」ということを前提に綴られる言葉は、想いは、

何も救わない。

例えそれが「優しさ」を根底に置いていたとしても。

 

「判らない」ことこそが、事実なんだ。
判らないから、怖いけど。
いくら誤魔化したって、怖さは消えない。

 

どちらにしても
わたしはラッキー、アンラッキー、そのどちらの存在の有無にかかわらず、
すでにかなりハッピーに生きてきた。
だからアンラッキーに飲み込まれて、キラキラ度を磨くなんてことはしたくもないし、考えたくもないのだった。

それじゃあ、随分強いのだねと私の事を思う人も、ひょっとするといるかもしれないけれど、そんなことはない。

言うまでもなく、もちろん、そんなことはないんだ。

 

部屋に帰って、ベッドに横になると、カーテンを閉めた隣から
「お隣さん、こんにちは」

と声がした。

 

「ああ、こんにちは。・・・よろしくお願いします。」

 

「・・・・お隣さんは、なんで入院してきたの?
私は、ちょっと、足を切らなくちゃいけなくてさー。」

 

彼女はとてもとても、話したそうだった。

 

妙に高揚した声。


あーー。
なんだろなあ。

病院って、「私の方が大変」自慢というか、妙なマウンティングあるよなあ。

きっと、彼女は心の奥底で不安でたまらないんだろう。
だから、大きな高揚した声で話して、「笑い話」のようにしてしまいたいのだろう。

 

その気持ちは判らないことはないけれど、
今、私は彼女に付き合う気持ちは、なかった。

 

「・・・私ですか?
私は、大腸癌と乳癌Wで。」

 

「・・・え!?」

 

妙な沈黙の後

「・・・そんなん、大変やんか。私やったら、かなんわ~~。
ああ、内臓系でなくて、良かった~~。」

 

私は返事をすることもなく、黙ったままでいた。

足を切断をするという隣のベッドの女性と、私との間に、「差」はない。

どちらも病人で
どちらも、大変っちゃあ、大変。

そうして「大変よねえ~」って言っている人間だって
いずれは、みんな・・・。

 

不幸自慢をするくらいなら、
友達にメールした方がまし。

そこで、甘やかしてもらった方がずっと健やか。


ほらね。
私は、決して強くはないんだよ。